陶器 磁器 その他の産地

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丹波焼(丹波立杭焼)
1.歴史
丹波焼(丹波立杭焼 たんばたちくいやき)は現在の兵庫県篠山市で焼かれる陶器で、その始まりは鎌倉時代初期に遡る六古窯の一つです。
初期の作品は常滑焼の影響が色濃く見られ、主な作品は甕・壷・擂鉢などでした。
茶入・花生などの茶陶が焼かれたのは他の産地より遅く桃山時代後期からだったようです。江戸時代になると黒褐釉・赤土部(あかどべ)が開発されて釉薬を施した陶器の時代が始まりました。
さらに江戸時代後期には型押・一陳・鉄絵・色絵などの様々な装飾技法が開発されました。
2.現在の丹波焼
明治時代以降の丹波焼は湯呑・皿・鉢などの日常の食器、花瓶などの民芸品の陶器を生産し続けています。
素朴な丹波焼ですが、現在は原料になる土は基本的に立杭周辺の赤土を使用しますが、白泥を掛けた白丹波などが作られるようになり、また重厚な土肌に窯の中で薪の灰が掛かった自然釉の他、絵付された新しい風合の焼き物も多くなってきています。
丹波焼はしばしば『丹波立杭焼』・『立杭焼』と言われますが、1978年(昭和53年)には『丹波立杭焼』の名称で経済産業省から伝統的工芸品の指定を受けています。


唐津焼
1.歴史
唐津焼は佐賀県西部から長崎県にかけての広範囲で焼かれる陶器で、その始まりにはいくつかの説がありますが、陶業として発展したのは豊臣秀吉の朝鮮出兵で李朝の陶工が連れてこられてからです。
桃山時代には茶陶に優れた作品が多く、その作風は彫唐津・朝鮮唐津・絵唐津など多彩でした。
1604年、有田の泉山で陶石が発見され1616年(諸説あり)に磁器が日本で初めて焼かれ磁器の生産が本格化すると次第に唐津焼は衰退していきましたが、江戸時代を通して唐津藩の御用窯として技術が継承されました。江戸時代前期は桃山様式を継承し、中期以降は銅緑彩に鉄絵を施した二彩唐津が流行しました。
2.特徴
東日本で焼き物を『瀬戸物』と言うように、西日本には『唐津もん』と言う言葉あります。有田焼が積み出された港の名前から『伊万里焼』と言われたように、唐津焼も積み出し港の『唐津』と言われ、唐津・武雄・多久などの焼き物が、いかに広く出回っていたかがよくわかります。
唐津焼は日本の他の多くの産地の焼き物と同じように日本の伝統文化である『侘び寂び』を表現することが得意な焼き物です。それ故、『一楽二萩三唐津(楽は信楽焼・萩は萩焼・唐津は唐津焼)』と言われ古くから、また現在も茶の湯の世界で高く評価されています。


萬古焼
1.歴史
萬古焼の歴史は18世紀中頃に遡ります。沼波弄山(ぬなみろうざん)が現在の三重県四日市市郊外に窯を築き茶道具を焼き、『永久に伝わるべきもの』の意味で『萬古』と名付け、印を押したことが『萬古焼』の名前の由来と言われています。特に沼波弄山の作品を古萬古と言います。
沼波弄山の没後、一時途絶えた萬古焼は森有節と千秋の兄弟により復活され、現在の萬古焼はこの時代の焼き物をルーツにしています。
2.現在の萬古焼
大正時代から大型の土瓶などの大物が多く生産されましたが、鍋の生産はそれほど多量な生産ではありませんでした。しかし、昭和30年代になると超耐熱の陶土が開発され、直火で割れない耐熱土鍋と言うことで全国的に好評で萬古焼の知名度を高めました。現在では国内産の土鍋の80%を越える主要な製品になっています。
現在、耐熱陶器の他、急須や一般食器の生産が盛んに行われています。


益子焼
1.歴史
益子焼は江戸時代末期に笠間の久野窯で陶器の製造を学んだ修行大塚啓三郎が現在の栃木県芳賀郡益子町に窯を築いたのが始まりと言われています。当初は甕や擂鉢、土瓶、壷などを生産していたことが知られています。東京に近い産地で、日用の食器などを多く生産していましたが、明治時代以降は金属器の普及に伴い衰退していくことになりました。
2.現在の益子焼
1919年(大正8年)に移り住んだ『民芸運動』の創始者の一人である浜田庄司が1927年より花器・茶器などの民芸品の製作を始め、それらの流通と浜田庄司の人間国宝に指定されたことによって全国的に知られるようになりました。益子焼は『浜田焼』と言っても良いほどに民芸思想を継承しています。
厚手の生地に黒や茶の釉薬を施し、大胆な絵付が特徴で、主に茶器や酒器、皿、さらに花器などが生産され続けています。


笠間焼
1.歴史
笠間焼は江戸時代安政年間に現在の笠間市箱田の久野半右衛門が信楽焼の陶工である長石衛門に指導を受け窯を開いたことに始まります。
笠間は益子と並ぶ関東の焼き物の産地で、江戸時代より甕・擂鉢の産地として知られ、明治時代には日常の食器類を焼いていました。
作られているものや、作風も益子焼としばしば比較されますが、益子焼のルーツは笠間焼です。
笠間は昭和の初期まで甕や日常食器の主要な産地でしたが、益子での民芸運動の隆盛と共に工芸品としての陶器を生産するようになりました。
2.現在の笠間焼
第二次世界大戦の終戦の後、日本にはプラスチック製品などが大量に流入し、日本人の生活様式も大きく変化しました。それに伴う需要の減少で笠間の窯業は、それまでの甕や鉢などの生産から工芸品の生産に移り変わりました。益子は他の産地のような伝統への拘りがあまりありません。そのせいか自由な創造を求める陶工が多く集まり独創的で斬新なデザインの焼き物を多く作る産地になりました。


砥部焼
1.歴史
砥部焼は愛媛県伊予郡砥部町で1730年頃から作られている焼き物で、藩の財政再建のため、砥石の屑から磁器を作ることを命じたことに始まると言われています。
1777年(安永6年)に大洲藩の時代に九州の波佐見や三川内などの技術を取り入れて染付の磁器の焼成に成功しました。後の1818年には川登で良質な陶石が発見され量産化が進められました。
2.現在の砥部焼
明治時代から第二次世界大戦以前の砥部焼では、さらに良質な陶石が発見され、近代窯業の技術や設備が導入され、良質の磁器が大量生産されるようになりました。
作品は染付や呉須で描かれた大花瓶や錦絵磁器などがあります。
最近は新鋭作家による伝統や今までの形式に捉われない作品が作られるようになりました。そして、1976年(昭和51年)には経済産業省から伝統的工芸品の指定を受け、2005年(平成17年)には愛媛県の無形文化財にも指定されました。


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